Chapter 1
心地よい窮屈さを求めて
岐阜県高山市にある宇津江集落。谷地に伸びるこの集落に、民藝の器を扱う〈やわい屋〉はある。3人と1匹の家族が暮らすこの古民家は、2015年に、車で1時間ほどの地域から移築してきたものだ。さらに遡ると、店主の朝倉圭一さんは名古屋の路上で弾き語りをしていた。一緒に飛騨から出てきたバンドの相方とは、ほどなく各々の進退について話しあうことも増えてきていた。今一緒に暮らす佳子さんと出会ったのもこの頃。
バンド解散に至った2010年代のはじめから、さまざまな物事の枕詞に「ローカル」の語が用いられ始めていた。都市部を離れ、自分らしい暮らしを求める。東日本大震災をひとつの契機として、そうした生き方のモデルが増える過渡期へと突入していく。「何かの真似ばかり多くて、ぼくはそれをやりたくなかった」と当時を振り返る。みんな何かを探していた。一方、当人にとってもまだ、この土地でしたい仕事にも師事したい人にも出会えていたわけではなかった。漠然と会社に人生を拘束されるのは嫌で、「やりたくない」がたくさんあった。
「(現在の活動は)やりたくない砂みたいなものを除けていったら、見えてきたもの。化石か茶碗なのか未だによくわからないですが、そんな何かを発掘したって感じです」。度々口にされたのは、歴史や過去への強い関心だ。それは、民俗や土地、宗教に思想とさまざまな対象へ、そして自分自身にも伸びている。
東京へいく相方と別れ、飛騨に戻った。数年のあいだ雑多な対象への、それゆえまっすぐな関心に従った勉強に明け暮れ、やわい屋が始まる。お店を始めたのは「家に居たかったから」。高校時代、学校へいかず家で無為の時間を過ごした朝倉さんにとって、どんなふうに暮らしたいかを考えることは、どうしたら外との望まない接点を減らせるかを考えることでもあった。その結果、私設図書館を開き、ギャラリーでのライブを催し、県外の大学へ行き、本を出すことになった。ひととたくさん会うことになった。それらはすべて「他になくて、ここにあって、無理がない」暮らしから始まった。
足元を掘って出会ったのは、自らの過去だけではない。民衆的工藝、いわゆる民藝もそのひとつ。柳宗悦(1889-1961)を中心に始まったこの思想/運動は、今なお多くの領野からの熱い視線を受けつつ、2026年で100年目を迎える。「(民藝は、)土地の当たり前のうえに成り立つものなので、違いがあることに価値を認めてもらえる。すこし違う言い方をすれば、当たり前の底みたいなものを体感できる気がしたんです」。
当たり前の底?
疑うことってどこまでいってもキリがないじゃないですか。自分は「冷蔵庫とか洗濯機って本当にいるの?」って思ったら、試してみないと気が済まないんです。実際にやってみると、やっぱりないと不便だと分かります。近年の複雑化した社会では、事実や歴史の扱いには、どこか底が抜けてしまったような印象さえ感じます。その点、器のような物は文字どおり、そのものでしかなく、疑いようがない。というか、めがけて掘っていくことのできる底がある。その土地から出てきて、その形をしている、という事実がある。まさに出土したって感じで。だからたとえ最近作られた物であってもそこに普遍があれば、歴史は乗っかり、違いが生まれる。とも思っています。
朝倉さんにとって「歴史」とは、どのようなものですか。
僕自身、曖昧な根底として捉えているとは思います。それぞれの人で言ってることが全然違うのが面白い。だからひとつの答えを探すというより、事実のグラデーションを見つけていくことに重きを置いているんです。たとえ頭で分かっていても腑に落ちてないと、いざというときに体も気持ちもついてこないですよね。歴史や過去からの学びが暮らしに欠かせないのは、自身が依って立つところをそうしたグラデーションの中に探しておくためなんです。そうしたトライアンドエラーをするための時間や場所を確保することが今の暮らしにつながっています。
「遊び/仕事」のような分かれ方ではないように聞こえますが、もしあるとしたらどこに違いがありますか。
トライアンドエラーで得られる、疑問から派生したインプットの蓄積が僕にとっては重要です。たとえ、お客さんとの会話であってもインプットにもアウトプットにもなるから、それは僕にとっての「遊び」かもしれません。その反面、接客業という視点においては受動的なもの、向こうからやってくるもの。って感じです。先のことを自分の想像だけで考えることはほとんどなくて。もちろん仕入れの計画とかは立てないといけないけど、この人はどういうことを求めてここにきているんだろうってことを常々考えながら仕事をしています。
そうした中で何にいちばん影響を受けていると思いますか。
うーん。ここでの暮らしから一番影響を受けているかもしれません。お店をやってる、というよりは暮らしている感覚が強くて。やわい屋は昼の1時から夕方5時までしか開けてないし、週に2、3日は休んでいます。ですので、沢山のお客さんがくるわけでもなく、一人のお客さんと長く話してるんです。その中で都度更新されていく暮らしは「そこに何かあるんだろうな」って思いながら、ずっと見ています。見てるけど、それはまだ輪郭がぼやけていて、いつまでも分からない。だからこそ、影響を受け続けてるんだと思います。
「そこに何かありそうだ」という、勘のようなものはどこからくるのですか。
事実のグラデーションの話と似ているかもしれませんが、前提を明らかにしていったからだと思います。僕は長男なんですけど、飛騨で生きていくことが当たり前だと思っていました。当時の僕にとっては疑いようがなかったんです。だから社会や歴史にさまざま登場する「不条理」みたいなものにも関心があります。「なんで自分はあの人と違うんだろう」と。僕の場合は飛騨のちょっとした窮屈さがそんなに嫌いじゃなかったんでしょうね。前提が何なのかを見極めていけば、掘るべきところも見つかって、そこに自ずと「何か」もあるだろうと思います。
「何かある」ところから、選びとる基準はありますか。
「妻がどう思うか」ですね。こんなことやりたいんだけどどう思う?って聞いてみる。もし「それってどうなの?」って言われたら辞める。言われても、それでもまだやりたかったら、説得したり言い訳したりして。いつも食い下がってばかりですね。
なんでも思うように選びとってきた訳ではないんですね。
そうですね。だから人間関係でも、できるだけ自分に否定的なことも伝えてくれる人が周りにいてくれると嬉しいなと思います。なんでも好き勝手できることを自由とは思ってなくて、むしろ心地よい制約がある状態が自由なのかもしれないですね。
その制約はどのようにできあがっていくのでしょうか。
何かを読んだり調べたりし続けて、誰も真似できないところまでやることで次第にできてくるんじゃないかな。それが周りに受けるかどうかは別です。でも、それが制約だったり、その人の魅力になると思ってます。たまに、「なんでこんなにお客さんが来るんですか?」と聞かれますが、答えようがないんです。商売にも流行り廃りはあるし、お客さんだって思い通りになるわけがない。明日の雨が降らないようにしよう、じゃなくって、時化(しけ)るから海に出ないようにって感覚です。言えば、これも制約です。そうした制約を無視して、何かを良くすることで安心感を得ようとはしないですね。
それは、不安が付きまとうのではないですか。
繰り返しになりますが、思い通りになると思うから不安になるのであって、これまでもこれからも自分の思い通りになることなんてほとんどないんだと思っています。そこまで手放せるのも、このカルチャー自体が、自分の思いで作ったものでは全くないからだと思います。人が作ったものに乗っかっている、仮住まいの感覚がある。そういう意味では、民藝という運動も、飛騨という土地も、よく言えば制約ですが、別の言い方をすれば、どこか言い訳にできる物のように捉えているかもしれません。だから、たまにもっと反省した方がいいよとかって怒られちゃうんですけどね。
その点、ご自身のことはどのくらい知っていると思いますか。
自分のことは自分がいちばん知ってるとも思ってるし、他者が決めたらいいとも思ってます。さっきの化石の話じゃないけど、取っておいて溜めておいて、尻尾だと思ってた物が実は前脚だった。みたいな事が一人の人間でも起こりうると思っています。だから、尻尾なんだって見たい人を特に否定しない。だって、全体像なんて自分でも分からないですから。僕は脚だと思ってるけど、あなたがそういうのなら尻尾なのかもしれないですね。って感じです。