Chapter 5
合理的に等価でふぞろい
木工を始められる以前は工業デザインを専攻されていたそうですね。
木工には、大学の講義課題で出会ったんです。難解に思える芸術に比べ、求められる「答え」があるデザイン分野に惹かれて専攻を決めたのですが、木工は形と構造が結びついて「答え」が出来上がる点を特に面白く感じました。
「構造」というのは?
実際に使われる時に必要とされる物の仕組みのことです。「デザイン」というと形や見た目だけのことと思われがちですが、特に木工では両者が強く結びついていると思います。大学卒業後はパッケージデザインの事務所で働き始めますが、消費材を作り続けることに疑問を持ち、木工芸術スクール(a)に入学します。飛騨は他産地に比べ、より工業的な進歩を遂げている家具メーカーが多い印象だったんです。
「あたたかみ」を連想しがちな木工ですが、「工業的」な方に惹かれたんですね。
そうです。最終的な答えが見えているなら、そこへは最短距離を辿るべきだと思ってるので、そちらが性に合っていたんだと思います。「工業製品」というとどこか冷たい印象で捉えられることも多いですが、単に無機質なばかりではなく生産ラインにも作業者の力量が大いに関わってきます。スイッチを押したら自動で完成品がでてくるわけではなく、汎用機(b)と呼ばれる加工機械を主に使用します。それらのメンテナンスも含めて作業者の仕事です。するとどこか機械も人間の手の延長に近い位置付けになってくるので、「工業」と一口に言っても聞こえ方が変わると思います。形のシンプルさだけに限らず、工程や工法も適切にデザインしていく過程を知る上でも、スクールや卒業後のメーカー勤務は多くの学びがありました。
直接は目に見えない部分もデザインの変数のうちということですね。その点、環境が変わりつつある現在のご自身をどのように捉えていますか?
これまでの活動は運が良かったと思うことが多いんです。イベント出展の縁でメディアに取り扱ってもらえたり、材料や知識も得やすい地域に住んでいられたり。その分、過大評価に思えてくることもある。自分の能力以上に評価されているんじゃないか、と。でも、部分的に取り上げられるところも、それはそれで自分の一部だと納得しながらやってます。そうしたことを続けていくなかで、メーカーもやらないし、一般的には個人でもやらないニッチをつくることで差別化されたポジションができていくと思ってます。
そうしたニッチの中でも、親しみや可笑しさが感じられる物が多い印象です。
僕はいわゆる作家タイプではないので、適正価格で出すために生産性やコストにかなりこだわります。「自分しか作れないものを作っている」という感覚もありません。匙や器など、作る物の方を固定すればもっと少ない機械でもいいんでしょうけど、技術更新の意味でも依頼された仕事や様々な要求に応える重要性を今は感じています。僕が作る物は、使われるハードルをなるべく下げたいので、メンテナンスもあまり必要ない方がいいし、部屋に置いて浮いてしまうようなものも作りたくない。どう届けられて、どこに置かれて、どう使われるかまでを考えたいんです。メーカーにいる時は、誰のためにつくってるのかよく分からなくなったのも事実なので、分業されていないからこそできることだと思います。
特に旋盤加工を多く用いられているのは、なぜでしょう?
もともと、メーカー勤務時代に独学で始めたんです。忙しくてまとまった時間が確保しづらい生産環境に適した道具として旋盤加工に惹かれました。材料を軸に固定して回転させながら削るので、粗い木材の整形から研磨や仕上げまでの工程が単純化できるんです。それでいて、フリーハンドでの造形で遊ぶ余地もあるので、作り込みすぎずに済みます。
単に効率的に作れたらいいわけでも、長く手をかけたらいいわけでもない。
はい。デザイン事務所時代に検討用のパッケージ模型を作っていたら、「時間をかけるからいい仕事ができるわけじゃない。逆に手垢がどんどん付いてくるから、きれいな仕事をしたければ制作する時間は短い方がいい」。と、師匠から言われたのを今でも思い出します。木工においても調整が多くなると、治具の傷が広がったり形のバランスも取りづらくなります。だからこそ、そもそもの構造から手垢がつきづらいようにデザインもします。
制作過程や作り手個人の環境が、製品そのものと混じり合うようです。
僕が作るものは、ちょっと複雑で均質ではない形だったりします。でも、そうしたばらばらなままのふぞろいさは、時に受け手にも喜ばれ、作り手にとって効率的であることもある。揃ってる方がいいところもあれば、ふぞろいなままの方がいいところもあるんです。合理性は、完成形の均質さやシンプルさのみから生まれるわけではなくて、ゴールを画一化せずに、ある種の条件をそのまま受け入れることによっても生みだされると考えています。
面白いですね。ふぞろいなもののなかにこそ答えを見出していく。とはいえ一般的に「バラつき」は工業デザインからすれば、解消すべき課題ですよね?
はい。ですから、これまでの数年は木工の条件に自分がなじんでいく過程だったと思います。最初は、許容すべきものと思えなかった。さっきも言ったとおり、メーカーでは実際に使ってくれる人との距離を感じていましたし、そもそも僕自身があまり会話が得意な方ではないので、条件付けのなかに表れてくる他者が見えてこず苦労しました。
つまり、使う人と関わるなかでふぞろいさを許容できるようになっていった?
そうですね。屋号を持って発信し始めたら自ずとそうなっていきました。実際に使う人と会話するようになってから、自分の口で木工について話す人間だという前提が定まった。それでも、以前は正しい情報だけを発信しなければと思ったりして窮屈に感じてもいました。でも、それって調べたら出てくることが大半じゃないですか。例えば、一般的に反りが強くて使いづらいとされている材でも、地域の製材屋さんの乾燥技術が高いから、実際に使ってみるとそうでもなかったりして特段問題に感じないこともある。発信するものがあるとすれば、そういう体感的な情報を発信しないと意味がないな。と。木工自体、そうした細かな情報が少ないので、力のある大きな主体が発信した意見が確かなひとつの答えのようになってしまうので。
なるほど。何かを参照したりもするのでしょうか。
まず、情報を小さく見ることはあまりしません。あくまで体感的な情報として大きく捉えるように心掛けています。使いやすいと思える物を直に触って、この膨らみは、だからこうなっているんだな。と。そういう参照すべきものが地域内に溢れているのは飛騨の良さだと思います。だから、たとえば人間工学で言われるような一般的な正解よりも、自分の感覚を重視しています。
そのようにご自身の身体感覚を信頼できるのはなぜでしょうか?
正確に言えば、僕自身の感覚はあまり信用していないんです。パッとみて、おおよそ何ミリだ。とか、そこまで正確には分からない。だからこそ、誰かが作った物をノギスでいちいち測ってみて、なんでこの寸法なんだろうって考える。情報を取るのならば、そちらの方が大事というか。人の感覚は裏切ると知っているからこそ、機械ができることを信頼しているとも言えると思います。