Text: Ryoji Nakashima Photo: Kosuke Ikeda

Chapter 3

なんでもない人の住むところ

中安 俊之 (料理人)

すこし黄味がかった、透明の液体がワイングラスにつがれる。グラスはいかにも粗雑そうに、にもかかわらず倒れたり溢れたりという不安感を寄せ付けないで、手元に差し出された。30代前半が持ち得た程度の「いかにもさ」はすこしも求められてないようで、グラスを持ち上げる手がすこし軽く感じられる。「暑いねぇ。」と、差し出されたのは、蜂蜜と水のみからできた人類最古のお酒、ミード。暑さとクーラーの冷気に堪えた身体にしみる。中安俊之さんが営むオーベルジュ飛騨の森に伺ったのは、そんな暑さがいよいよ本格化し始めた8月頭のことだった。「ね、夏っぽいでしょ?」。「オーベルジュ」とは、宿泊機能が備わったレストランを指す。海外レストランで15年以上にわたり勤務した後、2015年にスタートした。こうした経歴をいろいろと聞き出そうとした矢先、「みんなで話そうよ」。こちらの顔ぶれを見ての中安さんのそんな一言で始まったインタビューは、「老害」との語を中心にまわり始める。世代間のやりとりには望むと望まざるとに関わらず、まとわりつく語である。

オーベルジュ飛騨の森 中安俊之さんの写真

そもそも「老害」ってなんでしょうか。

たとえばだけど、いくら正論であれ言っても伝わらないタイミングの人に向けて口に出しちゃったら「老害」じゃないですかね。それは、圧になるからね。年長者に言われて後々気づくことも少なくはなかったから、どんな圧も許容されない今の社会に生きる若い人たちは色々と大変だと思いますよ。とはいえ、当時は「うるせー」って思ってましたけど。

それはどんな圧だったんですか。

友達の家に行っても正座させられるくらいには、かなり厳しい家庭だったんです。寡黙な父だったから、手が先に出ることもしばしばで。ビビりで泣き虫な子どもでした。その反動か、社会に出始めた頃から仕事をしててもほとんど遊ぶように没頭しました。昼間はイタリアンで働いて、夜は音楽イベントを主催して、翌朝からまたカフェをやって。そこでも、偉い人に怒られまくってましたね。

オーベルジュ飛騨の森 ワインセラーの写真

年長者として教える側になり、変化はありますか。

この5年くらいだと思うけど、他人はそもそも分からないということ、そのものを許容できるようになってきたかな。前は「それくらい自分で調べろよ」って思ってたけど、調べるワードを考えるのもセンスで。そもそも教えてる内容だって、現時点で僕がそう思ってるだけのことでもあるし、知るタイミングになったら自分で調べるでしょ。くらいに思ってます。

ちょっと調べたことだけを鵜呑みにしてしまうのは今の社会の問題だと思います。

えっとね。問題提起するから問題になる、とも思うんですよ。問題かどうかは、正しいかどうかじゃなくって、まずは各々の心地よさで判断しなきゃじゃないですかね。何歳で字が書けないとダメだとか。これこれが健康に悪いとか。それ、本当に問題なの?って。極端に言えば、そういう物事を言ってる本人がどんな顔をしているかで判断したい。

でも、そういう誰が言ってるかばかりで判断されるのもそれはそれで嫌です。

じゃあ、それの根本原因はなんだと思いますか?

オーベルジュ飛騨の森 建物内観の写真

んんー。なんでしょう。

発達段階(a)だからじゃないですか。大多数を占める他人から認められたい人が外に正解を求めるのは必然で。そういう物事の楽しみ方が分からない人が、自分を納得させるために表層的な知識だとか他人から聞いたことだけで語るのはしょうがない。でも、分かってるから美味しいと思ってることと、分かんなくても美味しいと思えることの間にはものすごい差がありますよね。ともかく、みんなが向いてる方とは逆を向いていても別に死なないし、答え合わせが重要だと思わなくなったのは確かかな。そこでの答えも結局、二項対立を一面的に判断してるだけだったりするしね。

でもそうした知識に偏らないでいられるのは、徹底して勉強したからではないですか。

当然、誰よりもサービスで楽しませられる程度には勉強もしてきました。でも、心底美味しいと思えたナチュラルワインについて深掘りしてみると、変に原料を選別したりしてなくて畑のぶどうを全部入れてたりするんですよ。だから、「えーっ!なにこれ美味しいじゃん!」って、そっちが先に来る方が大事。ゲストは全く知らなくても楽しめるようにするのが僕らの仕事なんです。そうなると、みんなが楽しんでるかを差し置いて考えるべきことはあんまりない。知識偏重のサービスなんかより、「絶対あなたはこんなん好きだよ」の方が嬉しいでしょ?

オーベルジュ飛騨の森 中安俊之さんの写真

たしかにそうですね。そう思うようになったのはいつ頃からなんでしょうか。

4、5年前かな。頑張って、忙しくして、知識を詰め込んで、なんの意味があるの?って、働くことそのものの意味を考え直しました。頑張ってなきゃダメ、忙しくしてるひとが偉いって空気への抵抗感が、パンデミックも手伝って一気に露呈した気がします。それで極力働かなくてもいい仕組みを考えてたら、たくさんのお金も友達も人気も大事ではなくって、なんでもない人になりたいって漠然と思い始めたんです。

なんでもない人?

若い頃に何者かになりたいって欲求を持つこと自体は否定しないけど、何者かと思われてる人がいるだけで「何者かの人」なんてそもそもいません。たとえ何者かに思われていたとしてもその先で、そこにしがみつく欲求から逃れられないでいる大人も結構いる。だから人生を楽しめて、食べる分だけ稼げていたら、それでいいんですよ。食べて、飲んで、寝るといった生理的な欲求にまつわる物事に、何者かを判断するための相手の情報は、あまり関係がない。ただ、悔しいかな、すごい人の方が面白い人が多くはあるんだけどね。でも、そこを出発点と取り違えるから、サービスがつまらなくなるんですよ。あくまで、数値化された客観に至るよりも前の主観からスタートする。技術を伴わせたうえで、そこを賭け金にしなければプロとは言えないです。だから、いわゆる「なんでもない人」に一番興味がある。飛騨にもいるよね。そういう人。

オーベルジュ飛騨の森 中安俊之さんの写真 オーベルジュ飛騨の森 建物外観の写真
オーベルジュ飛騨の森 建物外観の写真

飛騨という土地には、どんな視線を送っていますか。

活気がないようには感じてませんね。一本裏手の通りに入るとちゃんと活気があったりする。今言ってたような、なんでもない変な人もたくさんいる。ぼくはそうしたカオスが文化だと思う。でも、いわゆる誰かが考えて整頓した場所も増えてはいて、そこには面白みを感じないですね。各々の好き勝手にやったことから生まれたカオスがあり、それでいて田舎感がなければ、どんなに寂れていても素敵な街だと思う。

さっきおっしゃっていた「食べて、飲んで、寝て」は、オーベルジュ飛騨の森が特に大切にされていることでもありますよね。

ぼくらが提供できるものってそれだけなんですよ。アクティビティとか、地域の魅力とかは外部にあるもので、それらをさくっと紹介して、さも接客した気になってしまうのは危険だと思います。自分たちがどこの住人なのかを明確にしたいんです。たくさん食べて、たくさん飲んで、眠くなったら寝にいく。これら以外にすることがあるなら、それは他の人に任せます。

オーベルジュ飛騨の森 中安俊之さんの写真

以前お邪魔した際、それらを知らぬ間に心底楽しめたことが印象的でした。

僕たちのプロ意識って、エンジョイラブルにあるんですよ。「なんか楽しめちゃう」のにも、ストーリーの緻密さや洗練された技術がなければできないことですから。そのうえで、それら僕らの考えてることがいかに見えないか、が限りなく重要だと思ってます。そもそもサービスをこと細かに指定する主体が客側って変じゃないですか?レストランはエンタテイメントで、その中心にあるのは店主の介入であるべきなんです。

介入というのは、主導権を握るということ?

そう。それは必ず経験を提供するサービス側が持ってないと。ここでの「経験」は主導権を握ってもらって知らない世界に連れてってもらうことなので、知ってるお酒だけで楽しみたいんだったら家でやればいいんじゃないですかね。と思っちゃう。ところでさ、蕎麦屋でまず何頼む?

えーっと、掛けそば?

もともとの文化的には、ノーなんですよ。もともと蕎麦屋は社交の場だから、お酒を飲んでアテを食べる場所。それでいきなり締めの蕎麦を頼むのは無粋と呼ばれちゃうんだよね。ここでもわかるけど世代間の介入があって、はじめて引き継がれる食文化がある。それがどんどんなくなっています。イタリアに行けば老齢のマスターが「ここ来たならこれ飲んでけよ!」って介入してくるバーがたくさんある。70代はそんな感じで普段全然役に立たないと思われてても、ここぞというところで力を発揮するジジイに僕はなりたいですね。

オーベルジュ飛騨の森 インタビュー終了後の机の上の写真

そうした歴史ある正統的なものと場末や裏通りにあるような一見吹けば飛びそうに見えるカオスさ、その両方にまたがる「文化」ってどのようなものなんでしょうか。

いわゆる「良店」って、トレンドの外にありターゲット概念自体がないことなんですよ。ある年代ばかりがいて入りづらい店は文化度が高いとは言えない。だから、たとえ吹けば飛びそうに見えても文化度が高い店はたしかにある。そういう店のあり方を「横綱相撲」と言い換えてもいいですね。これが一番かっこいい。マーケットの数をとらない横綱相撲が、いま僕の目指すところです。自分が老いた先にもやっていくつもりがあるなら、そこを目指さないとね。若い頃にはインスピレーションを重視していても、やっぱりそれはトレンドに近いものであって、さっき言った経験の方が文化をつくっていく。その点、これからの街や人がトレンドばかり志向して、東京の劣化版になっていくのはもったいないよね。センスは数から生まれるから、そっちで勝負したら勝てるわけがない。今飛騨で生きる若い人らが山に入っては木を切って、冬にはバックカントリーを楽しんでたら、都市にも負けるはずないでしょ?

(a) マズローが提唱した欲求の5段階 1.生理的欲求 2.安全の欲求 3.社会的欲求 4.承認欲求 5.自己実現欲求 (b)『STATUS AND CULTURE』(デーヴィッド・マークス著)では、トレンドがどのように生まれ、どう変化していくのかという「文化の力学」はステイタスの概念に深い関わりがあることが紹介されている。
お話を聞いた人 中安 俊之 (なかやす としゆき)
イタリアとオーストラリアでシェフとして長年の海外生活を経て帰国。ペンション「飛騨の森」を経営する妻の実家がある高山市に移住。地域に根ざした暮らしにシフトし、2016年、イタリア料理も楽しめるオーベルジュとして宿をリニューアル。
オーベルジュ飛騨の森 建物内観の写真 オーベルジュ飛騨の森 | Auberge Hida no Mori
住所
〒506-0035 岐阜県高山市新宮町3349-1 (Google map)
電話番号
0577-34-6575
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気になる人がたまにいる。そのことは見れば分かる。でも、なんで気になったのか、それがどこからきているのかは分からないことの方が多い。だから、聞いてみた。気になる人の足跡を追って内面へと遡行する、前進の解剖学。