Chapter 4
鼻歌まじりの0.001秒
鈴鹿8時間耐久レース。通称「8耐」と呼ばれるこの国際レースに本業の傍ら、しかも自社サポート以外はノンスポンサーで出場を果たした方がいると聞き、埼玉県上尾市を訪れたのはのんびりした台風が近づく夏の暮れだった。電気工事を主に、広く施工監理から建設工事までを担う株式会社 E・P・Sの代表、内山寛さんの物腰の柔らかさには良い意味で想像を裏切られることになる。しかし、この柔和さの背後に広がる、超高速だけれども他者を置いてけぼりにしない世界に再び驚かされることとなった。
そもそもなんですが、なぜ「耐久」レースなんでしょうか。
8時間ずっと走ってたら手伝いに来てくれたピットクルーも楽しくないですか?これはもう体感してもらうのが一番良いんだけど、強いて言葉にすればチームで戦うところじゃないかな。耐久レース(a)はスプリント(b)と違って、メカニックとも協力しながらパーツもライダーも交換して挑むからチーム戦の色がかなり強い。短い映像だけ見ると個人種目のように見えますけどね。当然ただ周ってるだけでなくて、ライダー同士のギリギリの駆け引きが長時間続くのも見どころではあります。
たくさん転ぶ映像を見ました。
300km/h超同士がしのぎを削ってますからね。次に繋げるために、怪我をせずに転ぶのはもちろんですが、自分の方へバイクが飛んで来ないか、バイクがどう損傷していくかも宙で見ていたり、ライダーは吹き飛ばされた瞬間からやることが多いんです。だからか、転倒車がピットロードから戻ってくる時の会場の一体感は言い表せないものがありますよ。ひとりだけで走っているわけではないんです。
なるほど。そのうえで、ライダー個人の技術というのはどのようなところにあるんでしょうか。
ひとつは時間をどれだけ細かく刻めるかだと思います。1秒を1000個に分けた中に、操縦の動作をどれだけ細かくはり巡らせられるかで、決定的な差が生まれます。習熟につれ、ひとつのコーナーでできる動作が数個から10個、20個と増えていくんです。
「度胸」とかだと思ってました。
それだけではないですね。ひとつの動作、ひとつのコーナリングはレース全体に直結するので、たとえ特異な一瞬を作れても次に反動が来るようでは良い結果には繋がらない。これは、ひとりのライダーがチームの一部分でもあることと似てると思います。だから肝を冷やしながらじゃ全然ダメで、鼻歌を歌いながらでこそタイムは上がっていくんです。そういったことを平気でしてのけるトップチームが集うのが、世界耐久ロードレース(c)で鈴鹿8耐はその中の第3戦です。
元々、バイクレースに関心を持ったのはいつ頃からなんでしょうか。
小学生の頃に、レンタルビデオ屋でたまたま手に取ったロードレース世界選手権の映像でした。中学に上がり、友人の父親からポケットバイクを格安で譲ってもらい、ずっとひとりで練習してましたね。その後、サーキットがあるからという理由で青森の実家を離れ、函館の高専へ進学します。そこでもバイトをしながらバイクに打ち込んで、北海道チャンピオンにもなりました。それも手伝ってか、教授に「無理だから」と止められたヤマハ発動機への就職が叶いました。ヤマハ発動機では、レーシングアドバイザーや「サービス」と呼ばれるメカニックの部署に入ったりもして、自分にとってのバイクがただ単にひとりで乗るだけの機械ではなくなっていきました。子供の頃から電子機器を分解したり、ブロック遊びをしたりするのが好きだったのもあってか、本当に楽しかったのを覚えています。
でも、そんなヤマハを離れる決断をされた。
はい。異動先での出会いがきっかけでスノーボードにハマって、プロショップを開きたいと思うようになりました。青森に帰って自営業としてやりたい、と。ヤマハ発動機は、とても気に入ってたんですけどね。ショップ立ち上げの資金調達の為に運送会社に転職し、トップセールドライバーまでになったのですが自分で決めていた3年の期限で退職しました。さあショップ立ち上げかと思いましたが、3年のタイムラグでタイミングが取れずに断念しました。
なんだか鈴鹿8耐が遠のいていくようです。
そうそう。バイクのことはきっぱり忘れていました。その時期に出会った電気工事の仕事に無我夢中で取り組み、独立します。僕の盟友で現・専務の黒田君の結婚をきっかけに会社化もしました。当時の生活はかなり苦しかったけど、少しずつ軌道に乗せることができた。でも、悔しい思いも同時に抱えてはいたと思います。ヤマハで華やかな現場に居た時と、現在のバイクから遠く離れた仕事で人生変わったと。そんな時に、電気屋の先輩から宮城県で開催されるSUGO4時間耐久レースに行ってみないかと誘ってもらったんです。
おお、ようやく。
そこで出会った先輩のチームメンバーは、首都高の走り屋ライダー達でした。ストリート車両をレギュレーション適合ギリギリで整備しただけの車両を持ち込んでいて、完走できるかも心配になるような状態でした。でも、彼らはめちゃくちゃ楽しそうに走ってるんですよ。いいタイムが出せなくてもチーム内タイムで争ったり、何回転倒しても、とにかく楽しそうに走っている。衝撃でした。それ以降、メカニックとして彼らに帯同して、ほどなくライダーとしても参加するようになり。当然、次第に鈴鹿への憧れも再燃してきました。
でも、出場が簡単ではないのもよくご存知なわけですよね。
そうですね。まず資金が無尽蔵にかかります。機材だけでなくて遠征費もバカになりませんから。それに国際ライセンスを取り直す必要があり、何より出場資格を得るためのレースで勝たなければならない。そもそもプロではなく一中小企業の経営者ですから、出場のための長期休みだって捻出するのにも苦労しました。さらに出場枠は去年の実績がある人たちでほとんど埋まっているのが前提です。その中で最終トライアウトレースにに狙いを定めて、元々親交のあった相馬利胤選手、鈴木明さんとチームを組みます。すでに実力のあった彼らと組むことで、たとえおんぶに抱っこと嘲笑されようがとにかく出場しよう、と。蓋を開けてみれば、条件の13位以内に僕含むチーム3人全員が上位通過。8耐行きを勝ち取りました。それが、2019年。気がつけば、映像に齧り付いていた頃からは50年近くも経っていました。
念願の鈴鹿8耐。いかがでしたか。
忘れられないですね。自社サポート以外はノンスポンサー、僕からすればほとんど自腹で、トライアウトも自分らで通し、完走もできた(d)。表彰台を争って戦うプロチームに比べたらささやかなのかもしれないですけど、チームで戦い抜けたからこそ嬉しかったです。僕の場合は、さっき言った鈴木明の走りに心底惚れ込んでいたところがあるから、なおさらですね。「この人と組んで出たい」「この人がやりたいと思うことをやりたい」というのが、熱意の半分くらいを占めていたかもしれません。関わってきた人らが心から喜ぶ姿を間近で見られるなら、それほどの財産は他にありませんね。
なるほど。今も出場に向けて準備をしているのでしょうか。
いえ。8耐出場後の翌年2月には機材を手放しました。年末からコロナの話題が出始めて、もうレースどころではなくなるだろうな、と。8耐後すぐに他の一般レースに出ることも考えられはしましたけど、ちょっと気持ちがついてこなかった。これからは自分が出場することよりも、周りにいる若い才能の後押しをしたいと思うようになったのもあります。うちの会社ではファクトリーライダー(e)を目指している子も働いていて、勝負の年だからと相談されて1年間有給でレースで結果を出す事だけに集中してもらった事もありました。特例ですけどね。周りに集ってくれていることに応えたいし、それが自分の喜びでもあります。
子供たちが集まれるイベントを開催されているともお聞きしました。
この事務所の2階にラジコンやミニ四駆のサーキット場があって、そこをたまに解放してるんです。そもそもラジコンは、さっきの黒田君がやりたいって言ったから始めたんですよ。自分一人が楽しいからってお金を使うのは躊躇しちゃうんだけど、誰かが楽しいんだったら迷わず使う。かと言って、その人に依存するわけでもなく、その人以上に僕が楽しむというのが基本のスタンスです。そこで作られる縁を喜んでたら、朝から夜まで40人近い人らが集まる日まで出てきました。
そうしたことと8耐出場を成し遂げる実現力に、どこか通底したものを感じています。
そうなんですかね。鼻歌まじりで走るのとおなじで、元々大きなダムで遊んでるから何か不慮のことが起きたときにも対応できるように思うんですよ。普段から余白を含めて生活していると不思議と危機の察知もできるようになる気がします。それを現場が忙しい時にでも無理して深夜まで遊ぶ口実にしちゃったりしてるんですけどね。